シューマン暦*今日は何の日? ver.1
2001/08/06 設置
暫定版です。資料から日付のはっきりしているものだけ、適当に見繕っています。 日付がはっきりしないものは載せていません。おいおい加筆修正していきます。 なお、これは厳密なものではありません。 |
日付 | 年 | 今日は何の日? |
01.01 | 1847 | ウィーンにてシューマン夫妻の第3回演奏会。シューマンの交響曲第1番とピアノ協奏曲。(聴衆にはハンスリック、ジェニー・リンド) |
01.04 | 1840 | クララとの結婚をめぐる裁判の最初の判決。ヴィークの抗議はシューマンの性格と飲酒癖に問題があるとする点以外は却下された。シューマンは反証を求められる。(最終的な判決は1840.08.01) |
01.05 | 1848 | ドレスデンにて混声合唱団を組織する。 |
01.06 | 1849 | 「森の情景」op.82 が完成。 |
01.08 | 1843 | クララがピアノを担当して、ゲヴァントハウスでピアノ五重奏曲 op.44 が初演される。ライプツィヒを訪れていたベルリオーズに高く評価される。 |
01.10 | 1847 | ウィーンにてシューマン夫妻の第4回演奏会。ジェニー・リンドが賛助出演する。 |
01.11 | 1855 | エンデニヒにブラームスが訪れる。 |
01.15 | 1847 | ウィーンにてシューマン夫妻のためのお別れ演奏会(マチネー)。シューマンの弦楽四重奏曲イ長調、クララのピアノ三重奏曲、シューマンの「リーダークライス」(アイヒェンドルフ)。(聴衆にはアイヒェンドルフなど) |
01.20 | 1848 | 次男ルートヴィヒ誕生。 |
01.21 | 1843 | シューマンのピアノ五重奏曲の評判を聞いたヴィーク(当時、ドレスデンに移住していた)がクララにあてて和解の手紙を書く。(この手紙にはクララにドレスデンにすぐに来てほしい旨とシューマンのピアノ五重奏曲のスコアを携えてきてほしい旨が記載されている。) |
01.21 | 1847 | シューマン一家(夫妻、マリー、ユーリエ)、ウィーンを立つ。(01.22 ブリュン着、その後、プラハに向かう) |
01.21 | 1848 | 歌劇「ゲノフェーファ」第2幕のスケッチをはじめる。(第2幕のスケッチ完成は 02.04) |
01.23 | 1845 | クララがシューマンに2人で対位法の研究をすることを提案。 |
01.23 | 1848 | 歌劇「ゲノフェーファ」第1幕のオーケストレーション完成。 |
01.25 | 1844 | クララと共にロシアへ演奏旅行に出発する。(03.04 ペテルベルク着、04.10 モスクワ着、05.30 ライプツィヒ着。) |
01.26 | 1841 | 交響曲第1番をスケッチ完成。 |
01.30 | 1847 | プラハにてシューマン夫妻の第1回演奏会。交響曲第1番。 |
02.02 | 1847 | プラハにてシューマン夫妻の第2回演奏会。シューマン自身の指揮によるピアノ協奏曲。 |
02.03 | 1847 | シューマン一家(夫妻、マリー、ユーリエ)、プラハを立つ。(02.04 ドレスデン着) |
02.04 | 1836 | 母ヨハンナ死去。 |
02.04 | 1848 | 歌劇「ゲノフェーファ」第2幕のスケッチ完成。 |
02.08 | 1846 | 長男エミール誕生。 |
02.06 | 1851 | デュッセルドルフにてシューマンの指揮で交響曲第3番初演。 |
02.10 | 1847 | クララと共にドレスデンを立つ。(ベルリンで「楽園とペリ」op.50 を上演するため。) |
02.10 | 1854 | 聴覚に異常をきたす。 |
02.11 | 1854 | 聴覚に異常をきたす。 |
02.12 | 1854 | 聴覚に異常をきたす。 |
02.14 | 1847 | プロシア国王列席のもと、ベルリンにて、シューマンの指揮による「楽園とペリ」op.50 が上演される。オーケストラはフィルハーモニー・ソサエティ、合唱はジングアカデミー。 |
02.17 | 1854 | 天使が歌を歌う。(幻覚と幻聴) |
02.20 | 1841 | 交響曲第1番のオーケストレーションが終わる。 |
02.22 | 1840 | イェーナ大学より哲学博士の名誉学位を受ける。 |
02.23 | 1843 | 「楽園とペリ」 op.50 の作曲がはじめられる。(1843.06.16 完成、1843.12.04 初演) |
02.25 | 1850 | ライプツィヒにて歌劇「ゲノフェーファ」の序曲がシューマンの指揮で初演される。 |
02.26 | 1854 | 精神病院への入院を希望し、夕食の済んだ後、突如として入院のための支度をはじめる。 |
02.27 | 1854 | ライン河に飛び込む。自殺未遂。 |
02.28 | 1841 | ゲヴァントハウスにてメンデルスゾーンの指揮により、交響曲第1番のリハーサル。(第1楽章冒頭のホルンの「くしゃみ」事件) |
03.02 | 1773 | 父フリードリヒ・アウグスト・ゴットロープ誕生。 |
03.04 | 1844 | クララと共にペテルベルクに着く。 |
03.04 | 1554 | エンデニヒの病院に向かってデュッセルドルフを立つ。 |
03.05 | 1852 | ライプツィヒのシューマン音楽祭に出席するため、クララとドレスデンを立つ。 |
03.11 | 1845 | 三女ユーリエ誕生。 |
03.13. | 1851 | デュッセルドルフにてシューマン指揮による定期演奏会。「デュッセルドルフ新聞」におけるこの演奏会の評論の中で、シューマンの指揮が酷評される。 |
03.14 | 1852 | ライプツィヒにてシューマン音楽祭が開催される。マンフレッド序曲、「ばらの巡礼」。(聴衆にはリスト、ヨアヒムら。) |
03.15 | 1828 | ギムナジウムの卒業試験終了。 |
03.15 | 1840 | リストがドレスデンで演奏会を開く。シューマンはライプツィヒからこれを聴きに行き、リストと初めて会う。この後、シューマンとリストは連れ立ってライプツィヒに赴く。 |
03.22 | 1852 | ライプツィヒのシューマン音楽祭が終わり、クララとドレスデンに戻る。(これがシューマンがライプツィヒを訪れた最後。) |
03.24 | 1847 | シューマン夫妻、ベルリンを立つ。(ライプツィヒを経由してドレスデンへ) |
03.29 | 1828 | ライプツィヒ大学法学部に入学。 |
03.31 | 1828 | ライプツィヒ大学教授エルンスト・アウグスト・カルス博士邸の音楽会でクララ・ヴィーク、フンメルの「ピアノ三重奏曲」を演奏。ローベルトに感銘を与える。 |
03.31 | 1841 | クララ主催によるオーケストラの養老基金のための演奏会にて、交響曲第1番が初演される。指揮はメンデルスゾーン。 |
04.03 | 1834 | 「新音楽時報」創刊号発刊。 |
04.03 | 1844 | クララと共にペテルベルクを立つ。(ツウェルを経由してモスクワを目指す。) |
04.06 | 1839 | 兄エドワルト死去。 |
04.09 | 1838 | ウィーン滞在中のクララが同じくウィーン滞在中のリストに、シューマンの「謝肉祭」とリストの「ニオベ幻想曲」を弾いて聴かせる。(リストがシューマンの作品をはじめて知ったのは1837年頃。op.5, op.11, op.14.) |
04.10 | 1844 | クララと共にモスクワに着く。 |
04.15 | 1828 | ツヴィッカウにて兄ユリウスの結婚式に列席。結婚祝いとして詩を贈る。 |
04.21 | 1834 | エルネスティーネ・フォン・フリッケン(1816.09.07-1844)がヴィーク家に寄宿。 |
04.24 | 1845 | ペダル・ピアノ購入。 |
04.24 | 1848 | 歌劇「ゲノフェーファ」第3幕のスケッチをはじめる。(第3幕のスケッチ完成は 05.03) |
04.25 | 1843 | 次女エリーゼ誕生。 |
05.02 | 1844 | モスクワで演奏会を開催。 |
05.03 | 1849 | ドレスデン革命勃発。(市内戦は 05.09 まで続く) |
05.04 | 1840 | クララとコネヴィッツに行きソプラノ歌手シュレーダー・デヴリアンの「フィデリオ」を聴く。 |
05.05 | 1849 | ドレスデン革命のため自警団が組織される。シューマンにも参加が求められるがシューマンは居留守を使ってこれを拒否。参加要請3回目にはシューマンの居留守が疑われ家捜しすると脅される。このため、クララはシューマンとマリーを連れてマークセンに避難。(シューマンとマリーを置いた後、05.07 にクララは残りの子供達を連れてくるため、再びドレスデンに戻る。) |
05.05 | 1849 | 避難先のマークセンで「リュッケルトの詩による『愛の歌』」op.101 が書かれる。 |
05.07 | 1855 | ブラームスの誕生日。クララにシューマンから最後の手紙が届く。シューマンは誕生祝としてブラームスに「メッシーナの花嫁」序曲 op.100 の楽譜を贈る。 |
05.08 | 1844 | クララと共にモスクワを立つ。(05.30 ライプツィヒ着) |
05.11 | 1829 | ライプツィヒを立ってハイデルベルクに向かう。(転学のため) |
05.11 | 1849 | ドレスデン革命から逃れてマークセンに避難していたシューマン一家、クライシォに移る。 |
05.13 | 1849 | 「青年の歌」op.79 が書かれる。 |
05.15 | 1840 | バルギール夫人(クララの実母)の誕生日。「リーダークライス」op.39を贈る。 |
05.18 | 1850 | 歌劇「ゲノフェーファ」初演のため、クララと共にライプツィヒに立つ。 |
05.21 | 1829 | 旅行中のヴィリバルト・アレクシスに同行し、ライン河をさかのぼる小旅行をした後、ハイデルベルクに到着。 |
05.21 | 1849 | 「狩の歌」op.137 が書かれる。 |
05.22 | 1847 | 長男エミール死去。(1歳2カ月) |
05.31 | 1849 | 「モテット」op.93 が書かれる。 |
06.04 | 1853 | ヨアヒムが自作の「ハムレット序曲」を送ってくる。 |
06.05 | 1840 | ベルリンのバルギール夫人(実母)のもとにいたクララがライプツィヒに戻り、シューマンの家に住みはじめる。 |
06.07 | 1850 | ライプツィヒにて歌劇「ゲノフェーファ」の初演のための総練習。 |
06.08 | 1810 | シューマン誕生。ツヴィッカウにて、午後9時30分。 |
06.11 | 1854 | 四男フェーリクス誕生。 |
06.16 | 1843 | 「楽園とペリ」 op.50 完成。(1843.02.23から作曲がはじめられていた。初演は1843.12.04) |
06.23 | 1850 | ライプツィヒにて歌劇「ゲノフェーファ」初演のためのゲネプロ。 |
06.25 | 1850 | ライプツィヒにて歌劇「ゲノフェーファ」初演。(リスト、ヨアヒムらをはじめ、友人・親戚が大勢聴きに来る。) |
07.02 | 1847 | クララと共にツヴィッカウに行く。 |
07.02 | 1849 | 「ミニヨンのためのレクイエム」op.98 が書かれる。 |
07.04 | 1840 | クララにヘルテルのピアノを贈る。 |
07.06 | 1851 | デュッセルドルフのシューマン邸完成。新築祝の演奏会が新居にて開かれる。 |
07.10 | 1847 | ツヴィッカウにて、シューマンのための特別演奏会。ピアノ協奏曲、交響曲第2番。 |
07.10 | 1850 | ライプツィヒで歌劇「ゲノフェーファ」の初演を成功のうちに終え、クララとドレスデンに帰る。 |
07.15 | 1828 | ブルンスヴィクの音楽監督ヴィーデヴァインに歌曲数曲を送り意見を求める。 |
07.15 | 1848 | 歌劇「ゲノフェーファ」第4幕のスケッチをはじめる。(第4幕のスケッチの完成は 07.27) |
07.16 | 1839 | クララとの結婚許可を得るための訴状を裁判所に提出。 |
07.16 | 1849 | 三男フェルディナント誕生。 |
07.23 | 1856 | シューマン危篤の知らせがクララのもとに届く。 |
07.27 | 1848 | 歌劇「ゲノフェーファ」第4幕のスケッチ完成。 |
07.27 | 1856 | エンデニヒにてクララと再会。 |
07.29 | 1856 | シューマン永眠。エンデニヒにて、午後4時。享年46歳。 |
07.30 | 1830 | ハイデルベルクから母にあててヴィークに入門する許可を求める手紙を書く。(音楽家になる決意表明) |
07.30 | 1853 | 激しい痙攣。 |
07.31 | 1845 | 完成したばかりのピアノ協奏曲イ短調の草稿が写譜屋に渡される。 |
07.31 | 1856 | ボンにて葬儀。クララ、ブラームス、ヨアヒム、ヒラーらが参列。 |
08.01 | 1833 | クララから「ロマンスと変奏曲」op.3を献呈される。 |
08.01 | 1840 | クララとの結婚の許可を求めた裁判の判決。(勝訴。10日以内にヴィークが控訴しなかったため、08.12に確定。) |
08.10 | 1826 | 父アウグスト死去。 |
08.12 | 1840 | クララとの結婚の許可を求めた裁判の判決が確定。 |
08.14 | 1837 | 聖オイゼビウスの日。ローベルトとクララ、婚約。 |
08.17 | 1833 | フリードリヒ・ヴィークの誕生日。この直前にクララの「ロマンスと変奏曲」op.3の献呈を受け、「クララ・ヴィークの主題による即興曲」op.5を作曲、ヴィークに捧げる。(自費出版の後、ホフマイスターから出版、1850年に第2版の出版。どちらの時にも献呈の辞はない。) |
08.19 | 1843 | クララとメンデルスゾーンがピアノを担当して、ゲヴァントハウスにて「アンダンテと変奏曲」が演奏される。 |
08.21 | 1829 | ハイデルベルク大学の休暇がはじまる。休暇中、シューマンはスイス、イタリアへと旅行する。(10.20にハイデルベルク到着) |
08.28 | 1853 | ヨアヒム来訪。 |
08.31 | 1853 | 言語に障害。 |
09.01 | 1841 | 長女マリー誕生。(名付け親はメンデルスゾーン) |
09.01 | 1850 | デュッセルドルフに移住するためドレスデンを立つ。(09.02 デュッセルドルフ着) |
09.01 | 1851 | リストがシューマンを突然訪問。(コージマ同伴) リストはシューマンとクララにロ短調ソナタを弾いて聴かせる。 |
09.08 | 1850 | デュッセルドルフにてシューマン夫妻のための歓迎レセプション。「ゲノフェーファ」序曲、「楽園とペリ」第2部などが演奏される。 |
09.09 | 1837 | クララと1年半ぶりに再会。 |
09.12 | 1840 | ライプツィヒ近郊シェーネフェルト教会にてクララと結婚。参列したのはバルギール夫人(クララの実母)、友人のエルンスト・アドルフ・ベッカー(大恩人!)のみ。牧師はシューマンの幼なじみのヴィルデンハーン。 |
09.13 | 1837 | クララの18歳の誕生日。シューマンがヴィーク、ヴィーク夫人にクララとの結婚の許可を求める手紙を書く。 |
09.13 | 1841 | 作曲中だった交響曲ニ短調(現在の交響曲第4番の初稿)のピアノ・スコアを仕上げ、クララに贈る。 |
09.13 | 1842 | 弦楽四重奏曲(第1番〜第3番) op.41 が試演される。 |
09.13 | 1848 | 「子供のためのアルバム」op.68 完成。 |
09.13 | 1849 | クララのために「誕生行進曲」op.85-1 を作曲、シューマンとマリーが連弾。 |
09.13 | 1853 | シューマンがクララと共に過ごした最後の9月13日。クララへの誕生祝が届かなかったので誕生会は翌日に延期される。 |
09.14 | 1853 | 1日延期したクララの誕生会。新しいピアノと「序奏とアレグロ」op.134 がクララに贈られる。 |
09.23 | 1853 | ヨアヒム来訪。 |
09.24 | 1830 | ハイデルベルクを立ってライプツィヒに向かう。(ヴィークに入門するため。途中デトモルトに寄り親友ローゼンを訪ねる。ライプツィヒ到着は09.29。) |
09.29 | 1830 | ライプツィヒ到着。グリマイシェ街のヴィークの家に下宿。(ヴィーク家に下宿していたのは1831.10まで) |
09.30 | 1853 | ハンブルクのヨハネス来たる! (シューマン夫妻は不在のため、対面は翌日) |
10.01 | 1853 | ヨハネス・ブラームスとはじめて会う! |
10.03 | 1844 | 移住のための住居を決めるため、クララと共にドレスデンに立つ。 |
10.06 | 1835 | ヴィークがモシェレス(シューマンが幼い頃から尊敬していたピアニスト)を自宅に招待する。 |
10.18 | 1833 | 2番目の兄カルルの妻ロザーリエ死去。 |
10.19 | 1846 | 交響曲第2番が完成する。 |
10.21 | 1841 | クララと共にワイマールへ演奏旅行に行く。シェラールの指揮で交響曲第1番が演奏される。(当地にてリストと再会) |
10.26 | 1847 | ピアノ三重奏曲 第2番 ヘ長調 op.80 が完成。 |
10.27 | 1853 | デュッセルドルフの定期演奏会にて、シューマンがヨアヒムの「ハムレット序曲」を取り上げる。 |
10.29 | 1853 | クララとヨアヒムの共演による演奏会が開かれる。ベルリンからベッティーナ・フォン・アルニムが聴きに来る。 |
11.01 | 1847 | ゲーゼよりメンデルスゾーン重体の知らせが届く。 |
11.05 | 1846 | 交響曲第2番がメンデルスゾーンの指揮で初演される。(ライプツィヒ) |
11.05 | 1847 | ロイターより、メンデルスゾーン死去(11.04)の知らせが届く。 |
11.06 | 1847 | メンデルスゾーンの葬儀に参列するためドレスデンからライプツィヒに立つ。 |
11.07 | 1853 | オーケストラの委員会から自作以外の指揮をしないようにと提案を受ける。 |
11.08 | 1847 | ライプツィヒのメンデルスゾーンの葬儀に参列したシューマンがドレスデンに戻る。 |
11.11 | 1845 | シューマンとヒラーが企画した定期演奏会の第1回が開かれ、ヨアヒムがメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ホ短調 op.64 を演奏する。 |
11.11 | 1847 | ヒラーがドレスデンからデュッセルドルフに移住。(ヒラーの後任として、シューマンが男声合唱協会リーダーターフェルの指揮者に就任。) |
11.16 | 1846 | 11.05 に初演されたばかりの交響曲第2番再演。 |
11.18 | 1832 | ツヴィッカウにて音楽会。第1部、クララ独奏。第2部、シューマンの交響曲の第1楽章。 |
11.19 | 1828 | フランツ・ペーター・シューベルト、ウィーンにて死す。享年31歳。数日後にシューベルト死すの知らせがシューマンのもとに届く。シューベルトの訃報をきいた日、シューマンは一晩号泣。(シューマンの泣き声が隣室のフレクシッヒにも聞こえたほど。) |
11.21 | 1852 | 聴覚に異常を覚える。 |
11.22 | 1845 | クララと共にヴァーグナーの「タンホイザー」を観に行く。タンホイザーに心を動かされる。 |
11.24 | 1846 | クララとウィーンへ演奏旅行に出かけるためドレスデンを立つ。マリーとユーリエを連れて行く。(11.27 ウィーン着) |
11.24 | 1853 | クララとオランダへ演奏旅行に出かけるためデュッセルドルフを立つ。(デュッセルドルフに戻るのは 1853.12.22) |
11.27 | 1846 | シューマン一家(夫妻、マリー、ユーリエ)、ウィーンに着く。 |
11.29 | 1844 | ライプツィヒのヘルテル邸にて、メンデルスゾーンとヨアヒムの演奏を聴く。シューマンはこの時、はじめてヨアヒムの演奏を聴く。 |
12.01 | 1851 | 四女オイゲーニエ誕生。 |
12.04 | 1843 | シューマン自身の指揮により、「楽園とペリ」 op.50 がゲヴァントハウスで初演される。(シューマンの指揮者デビュー?) 初演が好評だったため、1843.12.11 に再演。 |
12.06 | 1841 | ライプツィヒでのシューマン夫妻の演奏会にリストが賛助出演。クララとリストがリストの「ヘクサメロン二重奏」を演奏、シューマンの交響曲ニ短調と「序曲、スケルツォとフィナーレ」が演奏される。 |
12.07 | 1831 | 一般音楽新聞にショパンの「作品2」についての批評が掲載される。 |
12.07 | 1834 | 親友ルートヴィヒ・シュンケ(D同盟員としてはヨナターン)、肺炎のため死去。 |
12.08 | 1844 | ライプツィヒにてドレスデンに移住するシューマン夫妻のためにお別れ演奏会が開催される。ピアノ四重奏曲 op.47 が初演される。 pf. クララ vln. ダーフィト vla. ニールス・ゲーゼ |
12.09 | 1850 | 交響曲第3番完成。 |
12.10 | 1846 | ウィーンにてシューマン夫妻の第1回演奏会。ショパン、シューマン、メンデルスゾーン、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番ト長調。 |
12.11 | 1843 | 1週間前に初演された「楽園とペリ」 op.50 が再演される。 |
12.12 | 1845 | 交響曲第2番のスケッチをはじめる。(スケッチの終了、12.28) |
12.13 | 1844 | ドレスデン移住のため、シューマン一家がライプツィヒを立つ。 |
12.15 | 1843 | ヴィークがシューマンに和解の手紙を書く。 |
12.15 | 1846 | ウィーンにてシューマン夫妻の第2回演奏会。シューマンのピアノ五重奏曲、アンダンテと変奏曲、ショパンのポロネーズ変ロ長調。アンダンテと変奏曲はクララとルービンシュタインのピアノ。 |
12.18 | 1839 | クララとの結婚許可を得るための裁判の第1回公判が行われる。(判決は1840.01.04) |
12.22 | 1853 | オランダからデュッセルドルフに戻る。 |
12.26 | 1847 | 歌劇「ゲノフェーファ」第1幕のスケッチをはじめる。(第1幕のスケッチ完成は 1848.01.03) |
12.28 | 1845 | 交響曲第2番のスケッチを終える。(スケッチの開始、12.12) |
12.29 | 1848 | 「森の情景」op.82 の作曲をはじめる。(1849.01.06 完成) |
12.24 | 1847 | 歌劇「ゲノフェーファ」序曲のオーケストレーションが完成。クリスマスの贈り物としてクララに贈られる。 |
12.31 | 1850 | 「メッシーナの花嫁」序曲完成。 |