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Sunday 28 August, 2011

※以下、ツイッターのメモをまとめたもの。メモ書きなので勘違い記憶違い間違いなどがあるかも。

NHKのBSで再放送された「トライ・エイジ~三世代の挑戦~」の第2回と第3回を続けて見た。第2回「金田一家三代の物語」は国語学者の金田一京助、春彦、春彦の3人の子供たち。http://t.co/4FYtn7G

京助と石川啄木のエピソードが紹介されるかと思って見たのだが、予想通り、というか、予想以上に啄木との交流がドラマ仕立てで描かれていた。貧しい同居生活の中での啄木の浮世離れした天才性(金がないのに花を買ってきて喜んでいる様子など)が短い時間の中で美しく描かれていたのもおもしろかった。

京助も春彦も、ロシア語学者と国語学者になった春彦の2人の息子も、誰1人最初から言語学者になろうとは思っていなかった…にもかかわらず気がついたら研究者になっていたとのこと。旧制高校時代の春彦は音楽家になりたくて本居長世の家に通っていた。そのエピソードもまたおもしろく。

番組では、作曲家になることを決意した春彦が、弟子にしてもらおうと本居長世の家に行った際、長世が弾くピアノ演奏を耳にし、自分にはあんな才能はないと絶望してしまう。帰り道、長世の秘書が追いかけてきて、「あなたはお父様のあとを継ぐ人だ」と長世が言っていたと教えられる。

この話が私に特に興味深く感じられたのは、本居長世のピアノ演奏がうますぎて春彦が音楽家になることを諦めたという点だけではなく、長世自身が代々続く著名な国学者の家系に生まれ育ったという点だ。(ご先祖は本居宣長。長世自身は家の学問を継がず音楽家になった)

京助のアイヌ語研究についてドラマ仕立てで紹介している部分もおもしろかった。樺太のアイヌ語が話せない状態で樺太に調査に渡った京助は、まず子供達を見つける。そこでいきなりノートに巨大なうずまきをぐるぐる書きはじめると興味を持った子供達が樺太アイヌ語で「何?」と口々に言いはじめる。

樺太アイヌ語の「何?」をナゾの(笑)うずまきによって獲得した京助は、次々に物を指して樺太アイヌ語で「何?」ときいていく。すると子供達がそのものの名前を樺太アイヌ語で説明しはじめる。(その時の調査ノート(うずまき入り!)の現物が残っていて、番組内でも紹介された。)

ところでドラマ仕立ての部分で若き金田一京助を演じたのは「おひさま」のお兄ちゃん(笑)こと、田中圭、石川啄木役はこれまた「おひさま」の中で出てきた途端あっという間に死んでしまった高橋一生(東京大空襲の医学生)。

「へえ、高橋一生っていう役者は若いのになかなか個性的な演技をするな」と思って後で調べたら、この人、ジブリの映画「耳をすませば」のヴァイオリン少年の声優だった。こんなに大きくなって(笑) (考えてみれば、あの映画は16年前に作られた映画だ…)

関連メモ:知里幸恵 http://t.co/4TFWQ4m

再度メモ。「アイヌ神謡集」の知里幸恵の(戸籍上の?)誕生日は6月8日だそうだ。(6月8日はシューマンの誕生日) ここ http://t.co/bBJdGy1 に掲載されている関連書籍がおもしろそうだな。

昨夜書ききれなかった「トライ・エイジ」の続き:NHKのBSで再放送された「トライ・エイジ~三世代の挑戦~」の第2回と第3回を続けてみた。第3回「杉山家三代の物語」。http://t.co/L4SYRhy 杉山茂丸、杉山泰道(夢野久作)、杉山龍丸の三人。

杉山茂丸は明治~昭和はじめにかけて政治の裏の世界で活動した「国士」で、「政界の黒幕」と呼ばれていたそうだ。http://t.co/2HRdQkM 伊藤博文を暗殺しようと考え、面会に行き、諭され、夕食までご馳走になって帰ってきたとか、その手の豪傑風、ドラマチックな話題が満載。

歴史の裏側で動いていた人だろうから、この人にかかわることの何が真実、事実なのか、本当はわからないのではないかと疑いながら見た。それでもドラマ仕立てで見る「ある豪傑の生涯」としてはおもしろい内容だった。

この人は「死体国有論」を唱えていたそうで、死後も国の役に立ててほしいと遺言によって献体。遺体は帝国大学で解剖されたとのこと。現在も東大に標本として全身骨格が残っていて、番組の中でその標本が紹介されていた。

(番組の中では触れられなかったけれど、左隣にあった小柄な骨格標本は夫人のものらしい。 http://t.co/LMGbuqD

噂には聞いていたが読んだことがなかった「ドグラ・マグラ」。この奇書(?)の作者の夢野久作が、「国士」にして怪人的豪傑(?)の杉山茂丸の長男、杉山泰道(改名前は直樹)だということ、実はまったく知らなかった。

泰道は両親の離婚により、また家にほとんど帰ってこなかった父に代わって、幼少時から祖父の三郎平に育てられる。(三郎平は福岡藩士で儒学者だったとのこと。番組内では、維新後、これからの時代は武士も農業をすべきだと藩主に進言して謹慎処分となったと説明されていたと思うが、このページ http://t.co/caqpMaA によれば、藩主に版籍奉還を直言して謹慎処分となったとあった。その後、三郎平は幼い茂丸を連れて城下から移住、農業をはじめたが士族の農業などうまく行くはずがなく、寺子屋→敬士義塾と学問を教えて生計を立てるようになったらしい。)

病弱で学問にすぐれていた泰道と、豪快な父・茂丸とでは気質が全く異なっていた。息子にとっては、父はほとんど家に帰ってこないで自分勝手なことをやっているくせに、自分の進路の邪魔ばかりする鬱陶しい存在だったかもしれない。それにもかかわらず、泰道は父の言葉に従って生きた(のだと思う)。

慶応義塾に進学後、泰道のもとに父から「今すぐ大学をやめて福岡に農園を作れ」という命令が下る。見ている側にしたら「出たなオヤジ。思いっきりセガレのジャマしているな~」という感じなのだが、20代前半の若者、好きな学問に打ち込んでいた泰道にしてみたら自分の人生を一変させるような命令。

その命令に従って泰道は大学を退学して福岡で農地取得→農園経営をはじめる。頭脳明晰で学問の好きな若者が、一体どうやってこんなむちゃくちゃな命令と折り合いをつけたのか。…と思っていたら案の定、農園の経営に失敗後、突然出家。この時、杉山直樹から僧・泰道と改名、京都や奈良を放浪…。

放浪(=修行)の後、泰道は還俗し、自身が開墾をはじめた杉山農園に復帰。結婚し、農園を経営。その傍ら、執筆活動をはじめ、新聞記者として関東大震災の取材なども行なった。

やがて童話作家としてデビュー。当初の筆名は杉山萌円だったが、泰道の作品を読んだ父・茂丸が「これは夢の久作さんが書いたもの」(「夢の久作さん」は九州の方言で「夢ばかり見ている人」という意味だそうだ)と言ったとかで、夢野久作という筆名を使うに至った。

このあたりの父子の葛藤が番組を見ていてもよくわからなかったのだが、作品を読んで感想を言っているということは息子のことをそれなりに認めたということか。

息子の方は、家族にとっては自分勝手なことばかりしている父について悟り(?)を得たようで(と言っても葛藤はあったと思うのだが)、父の後片付けをするのは自分の役目だと自覚していたとか。

なので、父が東京で急死するとすぐに上京し、父が残した莫大な借金の処理(と複数の愛人・異母弟妹への対応)に追われ、結局その過労のために東京滞在中に急死。構想と執筆に10年も費やした「ドグラ・マグラ」の出版からわずか1年後。47歳。あっけない最後だ。

正直、私は茂丸のような人物は苦手なので、彼を扱ったパートについては「なるほどねえ」と思った程度。個人的な興味も関心も薄く、従ってさほどの共感もなかったのだが、泰道(夢野久作)を紹介したパートはとてもおもしろかった。(しかし、それも物語が祖父の代から語られていたからだろうな)

メモ:杉山茂丸 http://t.co/2HRdQkM 杉山泰道(夢野久作) http://t.co/LGZ1gBU

メモ:夢野久作 「ドグラ・マグラ」 青空文庫 http://t.co/yfywhLj

泰道の息子の龍丸は元軍人。自身も死を覚悟するのほど負傷を負った。大勢の部下が命を落とした。戦後はその部下の遺族を訪ねて全国を行脚。隊長のおまえがなぜ生きて帰ってきたかと部下の遺族から叱責された。戦後は父が残した杉山農園で農業に従事。

やがて戦友の紹介で、農業の技術を学びたいというインドの青年を農園に受け入れ、農業を教えるようになる。それが縁で1960年代に渡印。当時、砂漠化が進んでいたインドでは旱魃と飢饉が続いていた。その悲惨な現状に愕然とする。

ところで龍丸の祖父・茂丸とラース・ビハーリー・ボース(日本に亡命、日本で亡くなったインドの独立運動家。新宿中村屋の娘と結婚して、インドカレーを日本に伝えた人)は交流があり、ボースを介して当時のインドの惨状を知らされ、飢餓に苦しむ人々の写真なども入手していた。

番組では裏に茂丸の筆による説明が書かれているこれらの写真が紹介された。飢餓で苦しむ古い写真の人々と、(その写真が撮られた時代から恐らく半世紀ほど後かと思われる)1960年代の人々の映像が重ね合わされる映像は圧巻だった。

あのような見せ方はやはり映像ならではだろうし、インドの現状が時間を経ても何ら解決していなかったことの一種の理不尽さ、さらにはこの一家の「宿命」のようなものさえ感じられた。

農業家としての龍丸は、インドの飢饉対策には日本の治山治水の考え方が役立つはずだ、そのためには樹を植えようと考えるに至る。(専門家によれば、この発想は当時としては画期的なものだったとのこと) そこで私財を投じてインドに樹を植えはじめる。

また、祖父がかかわって台湾で開発された蓬莱米をインドに持ち出すことに成功する。この米は台湾の気候に合うように改良されたもので、この米の開発によって台湾では米の増収に成功した。インドには台湾と似た気候の地域があることから、龍丸はこの米をどうしてもインドに持ち込みたかったらしい。

しかし、当時の台湾政府は蓬莱米の種籾の国外への持ち出しを禁止していたとのこと。龍丸がこの米を台湾から持ち出すことができたのは(もちろんその熱意の賜物あってのことだろうけれど)、茂丸の孫という点も考慮された…というような説明だった。(こんなところにも祖父が出てくるんだな)

インドでの植林事業、農業指導、それらにかかる費用は父から受け継いだ農園を切り売りして作ったとのこと。結局、広大な杉山農園は結局すべて売り払われた。

アジアと日本のためにというモットーに生涯を捧げた祖父・茂丸、その茂丸に命じられ農園を作り守った父・泰道、そしてその農園をすべて売り払って資金を捻出してインドの緑化に尽力した龍丸。ここでこの杉山家三代の物語が完結する。

一貫性があるような、ないような、それでいてやはりこの人たちは同じ何かだったのだと感じさせる番組構成だった。この点がおもしろかった。(ただ、先にも書いたが、私が個人的に興味を持ったのは、泰道こと作家・夢野久作のパートだけ) ※以上すべてメモ書き。勘違い記憶違い間違いなどがあるかも。

メモ:杉山龍丸 http://t.co/F7CCKQc

メモ:磯永吉(台湾で蓬莱米を開発した日本人の農学者) http://t.co/a7t7xvu

で、長々と第3回についてメモを書いたが、結局、第2回の「金田一家」の方が私にはよりおもしろかった。それもやはり京助のパートがいちばんおもしろかった。金田一京助をモデルにした連続ドラマがあったらいいのになあ。毎回、アイヌ語や国語学、言語学のエピソード満載。絶対楽しいに違いない…


Tuesday 24 June, 2008

※2~3年前に読んだ本だけれど、おもしろかったのでここに書く。 …っていうシリーズがしばらく続く(予定)。


戸松淳矩 『剣と薔薇の夏』 (上・下)
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上/創元推理文庫(Mと-1-4)
初版:2005年09月30日
ページ数:410P
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下/創元推理文庫(Mと-1-5)
初版:2005年09月30日
ページ数:382P


 寡作の作家らしく、この『剣と薔薇の夏』構想と執筆に15年をかけた大作とのこと。第58回日本推理作家協会賞受賞。

 1860年の発展途上中のニューヨーク、徳川幕府から送られた日本使節団のお侍さんたちが熱狂的に迎えらている最中に起きた連続殺人事件の謎に挑むアメリカ人新聞記者の物語。本格ミステリーと歴史小説が合体した上、幕末の日本人がアメリカを旅するという、日本人なら誰でもが興味を持つようなおもしろい史実を踏まえている点がとても新鮮でおもしろかった。社会的な視点による、硬派のミステリー。


●出版社サイト

単行本版
文庫本(上)
文庫本(下)






ほんばこ。


Monday 14 May, 2007

(つづき)

 和歌山城管理事務所のウェブサイトを参考に、和歌山城の歴史について簡単にまとめておく。

 築城は戦国時代の1583年。豊臣秀吉の命により秀長が築城にあたった。江戸時代初期の1619年に徳川家康の十男・頼宣(1602-1671)が入城、以後、紀州徳川家の居城として繁栄をとげる。(紀州家は吉宗と家茂の2人の将軍を輩出している) 徳川家の居城となった際に大規模な改修が行われたが、江戸末期の1846年に落雷のため天守閣が焼失、1850年に再建された。ご維新の後、1871年(明治4年)に廃藩置県のため廃城、その後、1901年(明治34年)に公園として市民に公開された。1945年(昭和20年)7月9日、和歌山大空襲のため焼失。1958年(昭和33年)に再建。火災や戦災に見舞われても、その度に多くの人の手によって再建され、守られてきた、とても尊いお城である。





 さて、霧雨に濡れて輝く美しい城内。いささか足元がすべって危ないので、よたよたしながらも山上へと続く階段を登っていく(おそらく「裏坂」と呼ばれる坂だと思う)。石段のところもあれば、石が敷かれていないところもあるが、いずれにしても滑るし、かなり急だ。斜面の角度の急なことは、下から見ても心臓が痛くなる。子供の時にここに来ていたら、空気よりも軽く飛んでいけたのかなと思わないでもない。しかし、山中の石垣と落ち葉、そこにちらちらと落ちる樹木の影、漏れくる光のコントラストが美しい。霧雨模様だから、いろいろなものの匂いが立ちこめて、あたりの空気はいっそう芳しい。







 坂を登りきったところが本丸跡となっていた。この辺りには給水塔や御殿の跡があったが、ここは管理地のため、立ち入れない。栄華の痕跡もなく、自然に戻っているのがいささかさびしい。やがて天守閣への入り口が見える。入り口でお金を払い、中へ入る。内部は資料館になっていて、紀州家ゆかりの品やお城に関する資料などが展示されていた。戦後に再建されたものだから、中に入ってしまえば現代の建物とそう変わりはないが、空間の使い方がやはりとても独特で、現代の我々が失ってしまった先祖の空間感覚の残滓を見た気がした。西洋的な世界観の中にいるとなぜそのような形なのか、理解に苦しむが(きっと建築学者であれば合理的な説明ができるのだろうけれど)、理屈抜きにして、とても心地がよいから不思議だと思う。

 大天守の一番高いところまで登る。中は展望台のようになっていて、窓が開け放たれ、外側のテラス部分(細い回廊)をぐるっとまわることができた。窓からの風が吹き抜け、気持ちがよいのだが、建物の中にいるという気がせず、まるで空の上にいるかのような気がして、いささか怖い。怖いが、まるで天空に浮かぶお城のようで、やはり気持ちがよい。 (「ラピュタだ!」と思ったのは言うまでもない。←お約束?)





 登って登って登って、ひたすら登った末にやっとたどり着いた大天守、心地よい風の中で見晴らしのよい風景を堪能したのも束の間、東京に戻る前に海南市まで行かなければならないと思い出し天守閣を後にする。今度は下りだが、来る時に登ってきた坂道は急すぎて、足元のよくない日に下るのは容易なことではないし、違う景色も見たかったので、来た時とは違う道を通った(どうも、これが表の道らしい)。きちんと整備されているから、現代の道には違いないのだが、それでも、趣が豊かで深い。まるで今にもお侍さんがあっちから歩いてきそうな気がした(脳内タイムスリップ)。

 ここで思い出したのは私が幼年時代を過ごした城址の中の小径のあれこれのこと、あるいは啄木のこんな歌のこと。

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心

      (石川啄木「一握の砂」






 帰り際に見た石垣があまりにも見事で驚いた。後で調べたら、この石垣は全国のお城の中でも特に美しいものとして知られているものとわかった。重機のない時代に人力だけでこれほどまでに美しく、緻密に、しかも高く石を積み上げる技術があったのだから、やはり驚くよりない。よいものを見ることができたと満足して和歌山城および和歌山を後にした。





(紀州篇はまだまだつづく)


●関連リンク

国民宿舎新和歌ロッジによる「和歌山城」のウェブサイト
和歌山城管理事務所のウェブサイト
和歌山大学教育学部附属小学校による和歌山城の紹介サイト


●余談

 この紀州篇を書いている間、ペーター・レーゼル氏のリサイタルを聴きに紀尾井ホールに出かける機会があり、紀州藩の屋敷跡の前を通った(紀尾井は紀州・尾張・井伊の屋敷があったことからついた地名。井伊家については本ブログ「ひこにゃんと豪徳寺」を参照のこと)。

 ここは紀尾井ホールに行く時にはいつも通るが、いつもは何とも思わない。むしろ私がいつも気になって、時間があればうろうろとしてしまうのが清水谷公園。けれど、今回は紀州のことを書いていたから、紀州藩の屋敷跡の石碑もおもしろいと感じた。

 場所はメトロの赤坂見附駅もしくは永田町駅から紀尾井に向かう途中。弁慶橋を渡ってすぐのお堀端。(ボ-ト小屋とは反対側=赤坂プリンス側)

 → 江戸時代と現代の地図を見る (Yahoo!)






(2007.04.29 弁慶橋より江戸城外堀を望む)
(紀州徳川家の屋敷があったあたり)


●追記 (2007.06.15)

紀尾井の紀州藩の屋敷跡そばの釣堀を利用した宿泊プランを赤坂プリンスホテルが企画するそうです。

* 読売新聞の記事(リンク切れの場合あり)

* Yahoo!の記事(リンク切れの場合あり)


●1年後の同じ日、さらに写真を撮ってきました。

こちらから → 小さい写真帖 10



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紀州、和歌山城 (1)
紀州、和歌山城 (2)
紀州、和歌山城 (3)
紀州、有間皇子終焉の地 (1)
紀州、有間皇子終焉の地 (2)


→ このほかの遊山記事


Sunday 13 May, 2007

(つづき)

 さて、私はさる太守が天下普請によって築いたお城(城址)を物心ついて以来の遊び場としてきた。ご維新直後の大火災で焼失したため建物などは現存していないが、とても巨大なお城で、幼年期の私の生活のほとんどすべてがこのお城の城郭の中と隣接地に収まっていた。私の幼年時代は、桜花香る、青葉揺れる美しきお城の記憶そのものだ。今思い返せば夢か幻のように美しい世界だった。現在住んでいるところについては「緑の多いところ、大きな公園の多いところに住んでいてうらやましい」と人に言われることもあるのだが、太守の城郭を物理的にも心理的にも生活の中心点として育った私には、今の家の近くの巨大公園群よりも、太守の父君と一族の居城たる江戸城のお堀の緑の方がむしろ馴染み深い気がする。紀州徳川家の祖は太守の弟君だから、和歌山城にはいささかの親近感を覚えもした。





 都合のよいことに、この時はお城のすぐ隣に宿泊していたこともあり、どこに行くにしても、まずはお城を見てからと考えていたが、前述のように、朝起きた時には前日の青空は消え失せ、いつ空が荒れてもおかしくない不穏な空模様。加えてとても蒸し暑い。天気がまだもっているうちに、そしてこれ以上暑くならないうちに手早くお城を見て海南に移動したいと考えていたので、朝食をたっぷり食べた後は早々に宿を引き払う。





 一ノ橋を渡って大手門より城内に入る。美しく整備され、清掃の行き届いた城内をふらふらと歩く。お城に来たからといって、あれを見る、これを見るというつもりもなく、漫然と空気を吸うだけでそれなりに満足していたのだが、天守閣への案内板が見えたので、登る道のことをあまり考えもせず、ぜひ行ってみようと思い立つ。

 高い湿度に潤う大気の中で、緑はひときわ色濃く、これはこれで趣があって美しい。このようなお城の土塁や石垣、生い茂る草木の世界には独特の匂いがある。この匂いはお城に特有のもので、お城ではない公園ではなかなか嗅げない(私の中の「犬」がそう感じる)。辺りは霧のような雨に濡れて、強い香りを放つ。自然と歴史が渾然となったものの、その存在の香りだ。

 鬱蒼と樹木が生い茂る、薄暗い中に、唐突に虎の像が現れる。いや「虎」と書いてあるから虎だとわかったが、最初は「大きくていびつな形の狛犬だな」と思った。和歌山城のある場所は虎が伏している形に似ているから虎伏山(とらふすやま)と呼ばれ、お城も虎伏城と呼ばれていた云々。そのことにあやかって作られた像らしい。荒々しい姿だが、守り神のようでもあり、重々しく荘厳な気持ちになる。





(つづく)


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紀州、和歌山城 (1)
紀州、和歌山城 (2)
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紀州、有間皇子終焉の地 (1)
紀州、有間皇子終焉の地 (2)


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