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Monday 18 August, 2008

今日は日帰りでこんなところ(↓)に行ってきました。


上から順に、

  ・ 和む…
  ・ 涼しい (つか、寒かった…)
  ・ 暑い…

日本列島「横断」途中下車@日帰りの旅。
(でも、日本海が見られず残念^^)


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Sunday 20 May, 2007

(つづき)

 有間皇子神社のすぐそばまで民家が迫っていて、細い道が続いている。一度、藤白神社の境内から出る。この道の先が藤白の坂の上り口になるようだ。案内板を頼りに道を進む。細い舗装道路を歩いていくと、昔の街道跡のような鄙びた風情の民家が連なる。軒下に熊野古道と記された提灯が下がっているので、この辺りは熊野古道の一部なのだとわかる。照りつける日差しが強い。青空の輝きは過ぎた夏を思わせる。白い雲が美しい。近くの家々からは昼食の支度をしているのだろうか、生活の音が道に響く。日曜の昼下がり、なんでもない日常生活が感じられ、のどかである。




 やがて道の先に小さな公園のような囲みが見えてくる。緑に囲まれたその一角だけは、この夏の残滓のような日曜の昼下がりの中でも妙に薄暗い。有間皇子の墓と伝えられる場所である。皇子の墓所は清められ、花が供えられている。この場所を守っている人たちの存在を窺い知る。先ほどの生活音がその人たちだろうか。それにしても寂しい場所である。これをのどかと感じるか、寂しい静けさと感じるかは受け止め方によるが。この場に来ると「あり通ひつつ見らめども」の山上憶良の歌が口をついて自然に出てくる。


  鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

                           (万 巻ニ・145)

   [ 山上臣憶良追和歌一首
    鳥翔成有我欲比管見良目杼母人社不知松者知良武 ]


 この歌は有間皇子の自傷歌に続く歌群の中の1首である。無事であったら再び結び松を見ようと歌った皇子はこの藤白の坂で処刑されてしまった。皇子は生きて再び松を見ることはなかったのだ。しかし、皇子は魂となって結び松に戻り、松を見ているだろう、人には見えないが、松にはそのことはわかっている…というような意味。「鳥翔成」は難訓として知られるけれど、「つばさなす」と訓んでおく。

 これを書いていてふと気がついたが、皇子が処刑されたのは西暦658年のこと。ということは、来年は没後1350年に当たる。1350年! こんなにも長い間、皇子の歌や悲劇が語り継がれ、神社や墓所が人々に守れてきたことは驚きだ。

 皇子の墓所にてしばし黙想する。辺りを包み込む静かさは物悲しい。この静寂の中で、薄暗い木立の中、皇子の墓所に佇んでいると、今がいつの時代なのか、わからなくなるような錯覚が起きる。時間感覚の麻痺と言おうか。いつまでもずっとここにいたいような、そんな気持ちもして、去るのが名残り惜しい。





 ここは藤白の坂のほんの入り口らしいので、もっと先にも進んでみたいと思ったが、山歩きをするような装備でもないし、日が照って暑かったこともあり、藤白神社に戻る。藤白神社には立派な楠があり、ここでしばし休む。この楠は熊野杼樟日命(くまのくすびのみこ)が鎮座していらっしゃるご神木で、お祀りしているお社は子守楠神社とのこと。 (子供を守る神様で、昔はこの神様にあやかって子供に名前をつける風習が関西にはあったとか。和歌山出身の南方熊楠の名前もこの神様に由来するとのこと)



 樹齢は1000年を超えるとのこと。1000年前といえば平安時代、源氏物語が書かれた時代にあたる。もちろん、1人の人間が経験できるレベルの時間の幅ではない。自分が持つ時間の感覚を基本に考えてみても、イメージのわかない長い時間。その生命の長大さにも驚くが、樹の大きさ、見事さにはさらに驚く。そして、こんなにも大きなものが、ただ静かにそこに立っているだけという、その存在のありようにも感動した。

 念願であった有間皇子の墓所があるところ、処刑の地である藤白に来られたことは忘れがたい。皇子を偲び、楠に物を思いつつ、藤白神社を後にする。海南から和歌山に戻り、和歌山から新大阪へ。時刻表を見て動いていたわけではないが、皇子の守護があったのか、ほとんど待つことなく、電車を乗り継ぐことができた。和歌山を後にした辺りから天気が荒れはじめる。大阪に近づく頃には嵐の様相。おどろおどろしい黒雲が電車の窓から見える。つい先ほどまで、皇子の墓所のあたりには青空が輝いていたのに、大阪(皇子の父、孝徳天皇が都を開いた地)に近づくにつれて天気が荒れてくるのだから不思議だと思った。





●余談:駅弁

 往路は品川駅にて深川めしを求める。江戸前の定番。あさりの炊き込みご飯、穴子の蒲焼。ハゼの甘露煮。美味である。復路、「たなかの柿の葉すし」は和歌山駅で、「ひらしまの鰻寿司」は新大阪で求める。新幹線に乗る直前、新大阪駅構内でマネケンのワッフルも買い求め、新幹線の車内にて食す。いずれも美味。ことに一口サイズに握られた鰻寿司は忘れがたい。




深川めし(江戸前の定番駅弁)





柿の葉すし(和歌山)





鰻寿司(新大阪)



食後にデザートとコーヒーでしめて、
この旅も終わりに近づく…
 ( 結局、食べ物の話になる)


(紀州篇、おわり)



●紀州で撮った写真を簡単にまとめた。
 → ふろく写真集



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紀州、和歌山城 (1)
紀州、和歌山城 (2)
紀州、和歌山城 (3)
紀州、有間皇子終焉の地 (1)
紀州、有間皇子終焉の地 (2)


→ このほかの遊山記事


Thursday 17 May, 2007

(紀州篇のつづき)

 和歌山城を後にし、和歌山駅に向かう。次の目的地は紀勢本線の海南駅の近く、藤白神社。途中、電車の中から紀三井寺が見え、帰りにでも立ち寄ろうかと迷ったが、駅からお寺までの道がのぼっているのが電車の中からも見てとれ(道がのぼるというより、お寺は山の上にある!)、これほど暑くなければと残念に思う。ほどなくして海南駅に着く。





 海南での目的地は有間皇子神社と藤白の坂の入り口近辺にあるという皇子のお墓とされる場所である。駅前からタクシーで藤白神社を目指す。この藤白神社は斉明天皇が紀の牟婁の湯への行幸の際に創建した祠に由来するそうだ。当時はすぐ近くまで海が迫っていたそうだが、今は小高い場所になっていて、海の気配も感じられない。かつてはここに熊野詣の人々にとってとても重要な藤白王子があり、熊野九十九王子の五体王子のひとつとして熊野詣の参詣者の信仰を集めていたとのこと。





 この藤白神社の境内の片隅に有間皇子神社があった。





 有間皇子は斉明天皇(重祚して斉明、もとは皇極天皇)の同母弟の孝徳天皇の皇子であり、血筋から言って、天皇の後継者として有力な位置にいた。非常に賢い人物だったと言われるが、賢すぎることは身の危険につながると悟り、狂人の振りをしていたとも言われる。しかし、謀反の疑いをかけられ、捕らえられ、湯治のため紀の牟婁に滞在していた斉明天皇のもとに送られ、そこで詮議を受ける。そして再び都に戻される途中、藤白の坂で絞首刑に処せられた。この皇子の「謀反」と呼ばれるものは中大兄皇子らの策略であり、無実の罪だったのではないかと言われている。

 この時、皇子が紀で詠んだとされる歌が万葉集に有間皇子自傷歌として収載されている。

  磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む

  家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

                       (万 巻ニ・141, 142)

   [ 後岡本宮御宇天皇代 有間皇子自傷結松枝歌二首
    磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武
    家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛 ]


 これらの歌は、歌だけを見れば有間皇子の史実とは結びつかないから、(諸説はあるだろうけれど)当時の古謡が皇子の悲劇と結びついて万葉集に収載された可能性があるのではないかと思われる。とはいえ、この一見のどかな2首の歌と有間皇子の悲劇が結びついた時、読み手の心の中に劇的な感動を与える。万葉集を代表する名歌であり、たいていの万葉関連の本にはこの歌と有間皇子の悲劇が書かれている。歌人としての有間皇子と彼の自傷歌は古来より多くの人々に愛されてきた。

 有間皇子神社は想像以上に小さいお社だった。間違いなく、この地は全国から多くの万葉ファン、研究者、歌人らが集まる「万葉の聖地」のひとつだろうが、そうと思えないほどひっそりしているところがすこぶるよい。この静寂の中で、人は皇子の悲劇と歌に思いを馳せ、感動を新たなものとするだろう。(私は静かなお社の前でそうできた)

 お社には大学ノートが置かれていた。山小屋などにあるようなメッセージノートで、来訪者が自由に書き込みを残せるようになっていた。私は何も書いてこなかったけれど、ざっと見みてみたら、やはり皇子の歌が好きで、そして皇子の悲劇に同情している多くの有間ファンが日本中から参詣している様子がうかがえた。陽の照る中、静かで人の気配もない境内なのに、ノートの中には大勢の人たち(私と共通の感性を持つであろう、たくさんの見知らぬ人たち)の息吹が感じられ、とても不思議な気がした。





(つづく)



●関連リンク

有間皇子について
 ・ 「南紀タウン」サイト内のページ
 ・ Wikipedia
 ・ 「飛鳥の扉」サイト内のページ
 
万葉集原文
 ・ ピッツバーグ大学とバージニア大学による公開ライブラリー

藤白神社について
 ・ 「熊野古道のすべて」サイト内のページ
 ・ 海南市サイト内のページ
 ・ 藤白神社の宮司さんのページ



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紀州、和歌山城 (1)
紀州、和歌山城 (2)
紀州、和歌山城 (3)
紀州、有間皇子終焉の地 (1)
紀州、有間皇子終焉の地 (2)


→ このほかの遊山記事


Monday 14 May, 2007

(つづき)

 和歌山城管理事務所のウェブサイトを参考に、和歌山城の歴史について簡単にまとめておく。

 築城は戦国時代の1583年。豊臣秀吉の命により秀長が築城にあたった。江戸時代初期の1619年に徳川家康の十男・頼宣(1602-1671)が入城、以後、紀州徳川家の居城として繁栄をとげる。(紀州家は吉宗と家茂の2人の将軍を輩出している) 徳川家の居城となった際に大規模な改修が行われたが、江戸末期の1846年に落雷のため天守閣が焼失、1850年に再建された。ご維新の後、1871年(明治4年)に廃藩置県のため廃城、その後、1901年(明治34年)に公園として市民に公開された。1945年(昭和20年)7月9日、和歌山大空襲のため焼失。1958年(昭和33年)に再建。火災や戦災に見舞われても、その度に多くの人の手によって再建され、守られてきた、とても尊いお城である。





 さて、霧雨に濡れて輝く美しい城内。いささか足元がすべって危ないので、よたよたしながらも山上へと続く階段を登っていく(おそらく「裏坂」と呼ばれる坂だと思う)。石段のところもあれば、石が敷かれていないところもあるが、いずれにしても滑るし、かなり急だ。斜面の角度の急なことは、下から見ても心臓が痛くなる。子供の時にここに来ていたら、空気よりも軽く飛んでいけたのかなと思わないでもない。しかし、山中の石垣と落ち葉、そこにちらちらと落ちる樹木の影、漏れくる光のコントラストが美しい。霧雨模様だから、いろいろなものの匂いが立ちこめて、あたりの空気はいっそう芳しい。







 坂を登りきったところが本丸跡となっていた。この辺りには給水塔や御殿の跡があったが、ここは管理地のため、立ち入れない。栄華の痕跡もなく、自然に戻っているのがいささかさびしい。やがて天守閣への入り口が見える。入り口でお金を払い、中へ入る。内部は資料館になっていて、紀州家ゆかりの品やお城に関する資料などが展示されていた。戦後に再建されたものだから、中に入ってしまえば現代の建物とそう変わりはないが、空間の使い方がやはりとても独特で、現代の我々が失ってしまった先祖の空間感覚の残滓を見た気がした。西洋的な世界観の中にいるとなぜそのような形なのか、理解に苦しむが(きっと建築学者であれば合理的な説明ができるのだろうけれど)、理屈抜きにして、とても心地がよいから不思議だと思う。

 大天守の一番高いところまで登る。中は展望台のようになっていて、窓が開け放たれ、外側のテラス部分(細い回廊)をぐるっとまわることができた。窓からの風が吹き抜け、気持ちがよいのだが、建物の中にいるという気がせず、まるで空の上にいるかのような気がして、いささか怖い。怖いが、まるで天空に浮かぶお城のようで、やはり気持ちがよい。 (「ラピュタだ!」と思ったのは言うまでもない。←お約束?)





 登って登って登って、ひたすら登った末にやっとたどり着いた大天守、心地よい風の中で見晴らしのよい風景を堪能したのも束の間、東京に戻る前に海南市まで行かなければならないと思い出し天守閣を後にする。今度は下りだが、来る時に登ってきた坂道は急すぎて、足元のよくない日に下るのは容易なことではないし、違う景色も見たかったので、来た時とは違う道を通った(どうも、これが表の道らしい)。きちんと整備されているから、現代の道には違いないのだが、それでも、趣が豊かで深い。まるで今にもお侍さんがあっちから歩いてきそうな気がした(脳内タイムスリップ)。

 ここで思い出したのは私が幼年時代を過ごした城址の中の小径のあれこれのこと、あるいは啄木のこんな歌のこと。

  不来方のお城の草に寝ころびて
  空に吸はれし
  十五の心

      (石川啄木「一握の砂」






 帰り際に見た石垣があまりにも見事で驚いた。後で調べたら、この石垣は全国のお城の中でも特に美しいものとして知られているものとわかった。重機のない時代に人力だけでこれほどまでに美しく、緻密に、しかも高く石を積み上げる技術があったのだから、やはり驚くよりない。よいものを見ることができたと満足して和歌山城および和歌山を後にした。





(紀州篇はまだまだつづく)


●関連リンク

国民宿舎新和歌ロッジによる「和歌山城」のウェブサイト
和歌山城管理事務所のウェブサイト
和歌山大学教育学部附属小学校による和歌山城の紹介サイト


●余談

 この紀州篇を書いている間、ペーター・レーゼル氏のリサイタルを聴きに紀尾井ホールに出かける機会があり、紀州藩の屋敷跡の前を通った(紀尾井は紀州・尾張・井伊の屋敷があったことからついた地名。井伊家については本ブログ「ひこにゃんと豪徳寺」を参照のこと)。

 ここは紀尾井ホールに行く時にはいつも通るが、いつもは何とも思わない。むしろ私がいつも気になって、時間があればうろうろとしてしまうのが清水谷公園。けれど、今回は紀州のことを書いていたから、紀州藩の屋敷跡の石碑もおもしろいと感じた。

 場所はメトロの赤坂見附駅もしくは永田町駅から紀尾井に向かう途中。弁慶橋を渡ってすぐのお堀端。(ボ-ト小屋とは反対側=赤坂プリンス側)

 → 江戸時代と現代の地図を見る (Yahoo!)






(2007.04.29 弁慶橋より江戸城外堀を望む)
(紀州徳川家の屋敷があったあたり)


●追記 (2007.06.15)

紀尾井の紀州藩の屋敷跡そばの釣堀を利用した宿泊プランを赤坂プリンスホテルが企画するそうです。

* 読売新聞の記事(リンク切れの場合あり)

* Yahoo!の記事(リンク切れの場合あり)


●1年後の同じ日、さらに写真を撮ってきました。

こちらから → 小さい写真帖 10



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紀州、和歌山城 (1)
紀州、和歌山城 (2)
紀州、和歌山城 (3)
紀州、有間皇子終焉の地 (1)
紀州、有間皇子終焉の地 (2)


→ このほかの遊山記事


Sunday 13 May, 2007

(つづき)

 さて、私はさる太守が天下普請によって築いたお城(城址)を物心ついて以来の遊び場としてきた。ご維新直後の大火災で焼失したため建物などは現存していないが、とても巨大なお城で、幼年期の私の生活のほとんどすべてがこのお城の城郭の中と隣接地に収まっていた。私の幼年時代は、桜花香る、青葉揺れる美しきお城の記憶そのものだ。今思い返せば夢か幻のように美しい世界だった。現在住んでいるところについては「緑の多いところ、大きな公園の多いところに住んでいてうらやましい」と人に言われることもあるのだが、太守の城郭を物理的にも心理的にも生活の中心点として育った私には、今の家の近くの巨大公園群よりも、太守の父君と一族の居城たる江戸城のお堀の緑の方がむしろ馴染み深い気がする。紀州徳川家の祖は太守の弟君だから、和歌山城にはいささかの親近感を覚えもした。





 都合のよいことに、この時はお城のすぐ隣に宿泊していたこともあり、どこに行くにしても、まずはお城を見てからと考えていたが、前述のように、朝起きた時には前日の青空は消え失せ、いつ空が荒れてもおかしくない不穏な空模様。加えてとても蒸し暑い。天気がまだもっているうちに、そしてこれ以上暑くならないうちに手早くお城を見て海南に移動したいと考えていたので、朝食をたっぷり食べた後は早々に宿を引き払う。





 一ノ橋を渡って大手門より城内に入る。美しく整備され、清掃の行き届いた城内をふらふらと歩く。お城に来たからといって、あれを見る、これを見るというつもりもなく、漫然と空気を吸うだけでそれなりに満足していたのだが、天守閣への案内板が見えたので、登る道のことをあまり考えもせず、ぜひ行ってみようと思い立つ。

 高い湿度に潤う大気の中で、緑はひときわ色濃く、これはこれで趣があって美しい。このようなお城の土塁や石垣、生い茂る草木の世界には独特の匂いがある。この匂いはお城に特有のもので、お城ではない公園ではなかなか嗅げない(私の中の「犬」がそう感じる)。辺りは霧のような雨に濡れて、強い香りを放つ。自然と歴史が渾然となったものの、その存在の香りだ。

 鬱蒼と樹木が生い茂る、薄暗い中に、唐突に虎の像が現れる。いや「虎」と書いてあるから虎だとわかったが、最初は「大きくていびつな形の狛犬だな」と思った。和歌山城のある場所は虎が伏している形に似ているから虎伏山(とらふすやま)と呼ばれ、お城も虎伏城と呼ばれていた云々。そのことにあやかって作られた像らしい。荒々しい姿だが、守り神のようでもあり、重々しく荘厳な気持ちになる。





(つづく)


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紀州、和歌山城 (1)
紀州、和歌山城 (2)
紀州、和歌山城 (3)
紀州、有間皇子終焉の地 (1)
紀州、有間皇子終焉の地 (2)


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